FAZER LOGIN陽菜から「毎日ちゃんと返信しなきゃって思うと、ちょっときついかも」と言われた翌朝、俺はいつものように「おはよう」と送るかどうかで少し迷った。
昨日までなら、起きたら何となく送っていた。陽菜も余裕があれば返してくるし、忙しければ後で返す。それくらいのつもりだった。
でも一度「負担」という言葉を聞いてしまうと、同じことをするだけでも意味が変わって見える。
送ったら返さなければと思わせるかもしれない。送らなければ、昨日の話を気にして急に距離を取ったように見えるかもしれない。
考えているうちに、自分でも嫌になる。
結局、俺は余計な説明をつけずに、
『おはよう。今日も怪我だけ気をつけて。返信はいらない』
と打った。
そこでまた止まる。
返信はいらない。
昨日、神崎先
第74話 知らない時間の彼女を、勝手に想像しすぎない 陸上部の共有SNSに上がった写真を見た時、最初に目へ入ったのは陽菜だった。 合宿先の競技場らしい。夕方のトラック脇で、練習を終えた部員たちが何人かまとまって写っている。全員かなり疲れているようで、座り込んでいる人もいれば、タオルを頭へ乗せたまま笑っている人もいる。 陽菜は中央より少し右。 頬が赤い。髪もかなり乱れている。多分、練習直後だ。 そして、その隣に知らない男がいた。 同じ陸上部なのだから、男子部員が隣にいること自体は何もおかしくない。 分かっている。 問題は、二人ともかなり楽しそうに笑っていたことだった。「……」 俺は写真を拡大した。 その瞬間、自分でも何をしているのかと思った。 別に近すぎるわけでもない。肩が触れているようにも見えないし、二人だけで撮っているわけでもない。十人近くいる集合写真の一部だ。 男が何か言ったのか。 別の誰かが言ったことで全員笑ったのか。 そもそも陽菜が誰を見て笑っているのかも、静止画だけでは分からない。 なのに、頭は余計な部分を補おうとする。 誰だ。 同学年か。 先輩か。 合宿中ずっと一緒なのか。 普段も話すのか。 陽菜はあいつといる時、よく笑うのか。「……またやってるな」 スマートフォンを少し離す。 柔軟剤の時と同じだ。 あの時は、知らない匂いを感じて、その匂いが男のものだと勝手に決めた。 今回は写真。 見えている情報はもっと多い。
第73話 応援してるから、全部報告してほしいわけじゃない 陽菜から「毎日ちゃんと返信しなきゃって思うと、ちょっときついかも」と言われた翌朝、俺はいつものように「おはよう」と送るかどうかで少し迷った。 昨日までなら、起きたら何となく送っていた。陽菜も余裕があれば返してくるし、忙しければ後で返す。それくらいのつもりだった。 でも一度「負担」という言葉を聞いてしまうと、同じことをするだけでも意味が変わって見える。 送ったら返さなければと思わせるかもしれない。送らなければ、昨日の話を気にして急に距離を取ったように見えるかもしれない。 考えているうちに、自分でも嫌になる。 結局、俺は余計な説明をつけずに、『おはよう。今日も怪我だけ気をつけて。返信はいらない』 と打った。 そこでまた止まる。 返信はいらない。 昨日、神崎先輩に言われたことを思い出す。「返信いらない」と言いながら、相手に何かを求めている文章になることがある。 俺は最後の一文を消した。『おはよう。今日も怪我だけ気をつけて』 それだけ送る。 返事がなくても、今日は待つ。 そう決めた。 すると十分ほどして、普通に返信が来た。『おはよう。今朝ごはん。昨日の話、夜ちょっとできる?』『できる』『じゃあ練習終わって余裕あったら電話する』『余裕なかったら明日でいい』 今度は送ってから消さなかった。 陽菜からは、『うん。そういう感じが助かる』 と返ってきた。 その一言で、昨日から胸の奥に残っていた引っかかりが少しだけ小さくなった。 ただ、なくなったわけではない。
第72話 既読がつかないだけで、悪い想像は勝手に増える 陽菜に送った朝のメッセージは、昼を過ぎても既読にならなかった。『おはよう。今日も気をつけて』 たったそれだけの文章が、送信済みのまま画面に残っている。合宿二日目で、朝から練習があることは知っていた。スマートフォンをロッカーか宿舎へ置いている可能性も高いし、昨日だって昼間はほとんど返信がなかったのだから、何も不自然ではない。 頭では、そこまで分かっていた。 それでも午後一時を過ぎた頃、俺は図書館で本を読んでいる途中にスマートフォンを開き、既読がついていないことを確認した。 三十分後、もう一度確認した。 午後二時過ぎにも見た。 三度目になると、自分でもさすがに嫌になった。「見たところで変わらないだろ」 小さく呟いてスマートフォンを伏せる。 昨日の夜、陽菜は「今日もかなり練習する」と言っていた。朝から走って、昼食を取って、また午後練習。その間に連絡が来ないのはむしろ予定通りだ。 だから、何も問題はない。 問題はないはずなのに、午後三時を回ると、頭の中に余計な候補が増え始めた。 転んだ。 脚を痛めた。 熱中症。 体調不良。 スマートフォンをなくした。 充電が切れた。 最後の二つならまだいい。 最初の三つは嫌だった。「勝手に悪い順に並べるなよ」 また独り言が出る。 こういう時、人間の頭はかなり性格が悪い。情報が足りないなら何も考えなければいいのに、空白があると勝手に意味を埋めようとする。しかも、楽しい想像より悪い想像のほうが妙に具体的になる。 陽菜が競技場で倒れているところまで想像しかけて、俺は本を閉じた。
第71話 四泊五日くらい会えなくても平気だと思っていた 陽菜の合宿初日は、朝六時半に届いたメッセージから始まった。『今から集合。眠い』 俺はその時まだベッドの中にいて、通知音で目が覚めた。画面を開くと、続けてもう一件来ている。『でも楽しみ。行ってくるね』 寝ぼけたまま少し考えてから、『行ってらっしゃい。怪我だけ気をつけて』 と返した。 すぐに既読がつく。『そこ最初に言うの悠真っぽい』『頑張って、のほうがよかった?』『今日はそれでいい』 最後に笑っているスタンプが一つ届き、それで朝のやり取りは終わった。 俺はもう一度枕へ顔を戻した。 四泊五日。 長いようで、そこまで長くもない。 以前、一日ほとんど連絡を取らずに過ごす実験もした。その時は昼過ぎから多少気になったものの、普通に図書館へ行き、蒼と会い、夜まで生活は成立した。 だから今回も大丈夫だと思っていた。 五日程度なら、別に。 会えないだけだ。 そう思っていたのは、どうやらかなり甘かったらしい。 午前十一時過ぎ、俺は大学の図書館へ向かっていた。 夏休み中なので構内は普段より静かだ。完全に人がいないわけではないが、講義期間中に比べればかなり少ない。 いつも陽菜と待ち合わせる中庭の横を通った時、俺は無意識にベンチを見た。 誰もいない。 当然だ。 陽菜は今、ここから電車で二時間ほど離れた場所にいる。 それだけ。 なのに、妙な感じがした。 普段なら会う約束がなくても、同じ大学のどこかにいることがある。陸上部の練習ならグラウンドか
第70話 付き合う前より、今のほうが好きな理由が増えている 雨の日に、昔より今の陽菜のほうが好きだと言った。 あの時は、匂いから昔の記憶が急に戻ってきたせいもあって、かなり素直に口から出た。でも、家に帰ってから考えてみると、あれは思いつきで言ったわけではなかった。 付き合う前より、今のほうが好きな理由が増えている。 次に会ったら、そのことをちゃんと話そうと思っていた。 ところが、いざ会うと、それだけのことを言うタイミングが意外と難しかった。「悠真、そっちの荷物持って」「どれ」「スポーツドリンク入ってる袋。重いやつ」「自分で買ったんだろ」「だから手伝ってほしいの」 夏休み中のフェチ研の活動日。部室へ行く途中、売店で陸上部用の飲み物をまとめ買いした陽菜と会い、そのまま荷物を半分持たされていた。「これ何本ある?」「八本」「一人で持つ量じゃない」「部室の冷蔵庫借りて、あとで陸上部に持ってく」「最初から二回に分ければいいだろ」「それは買ったあと気づいた」「計画性」「今日暑かったから頭回ってなかった」「普段は?」「悠真、喧嘩したい?」 こういうところだ。 昔なら、陽菜に対して「明るい」「陸上部」「汗を気にしている」「声が好きらしい」くらいしか知らなかった。 今は違う。 買い物で少し無茶をする。思いつきで行動して、あとから重いと気づく。負けると機嫌が悪くなる。慰められたくない日がある。一人でいたい日は本当に一人になる。俺が他の女子と話していると少し嫉妬するくせに、自分が嫉妬されるとほんの少し嬉しそうにする。 面倒なところがかなり増えた。
第69話 雨の日の彼女は、少しだけ昔の匂いがする 夕立が来る直前の空気には、少し独特な匂いがある。 湿った土と熱を持ったアスファルト、それから遠くで降り始めた雨が風に混ざってくるような匂い。昔から俺はそれが分かったし、普通の人より少し早く雨に気づくこともあった。 その日も、大学近くの本屋を出たところで空気が変わった。 空はまだ明るかったが、西側には濃い雲が広がっている。「これ、降るな」 俺が言うと、隣を歩いていた陽菜が空を見上げた。「天気予報、夕方から雨だったっけ?」「知らない。でも来る」「鼻?」「多分」「便利なのか面倒なのか、たまに分かんなくなるね」「俺も」 夏休みに入ってから、陽菜とは会える日に会う、という形が少しずつ定着していた。今日は午前中に陸上部の練習があり、午後から俺と会っている。いわゆる一日デートではない。本屋を見て、遅い昼飯を食べて、少し歩いて帰る。それくらいだった。 それでも最近は、こういう時間がかなり好きだった。「傘持ってる?」 俺が聞くと、陽菜はバッグの中を確認してから首を横に振った。「ない。悠真は?」「折り畳み」「用意いい」「天気予報見たから」「さっき知らないって言ったじゃん」「雨の時間までは見てない」「紛らわしい」 そんな話をしている間に、風が強くなった。 陽菜のポニーテールが揺れる。「駅まで急ぐ?」「走る?」「今日もう走ったから嫌」「陸上部なのに」「陸上部だから、移動まで走りたくない日もあるの」







